目覚ましが鳴るよ

僕らは真逆だった。


2011年に札幌でこのバンドを始めた僕にとって、本棚のモヨコというバンドが唯一の同期と呼べるバンドだった。メンバーたちの歳も同じで、同じ頃に始めたバンドは、モヨコだけだった。いつぞやのmoleで、爆弾ジョニーのりょーめーが、「シンゴくん、みおちゃんがモヨコってさあ、そんなの最高に決まってるじゃんね。森くんの歌をみおちゃんが叩くなんて、ずるくない?」って言ってきたのを鮮明に覚えてる。

モヨコと僕は、聞いてきた音楽もそりゃある程度同じだったし、好きな音楽も同じだったように思う。GOING STEADYに本気でなれると思っていたし、アコギはゆずが教えてくれたし、クリスマスイブRapは歌詞を見なくてもそらで歌えるのが僕らの最低条件だ。

ただ、自分でやる音楽・やれる音楽となると、僕と森くんは大きく違った。
僕には「熱い」「まっすぐ」「等身大」というワードがわかりやすくずっとまとわりついてきて、それがいつも嫌だった。というかそれこそ、モヨコに、森くんにこそ言える言葉じゃないかと、僕はいつもそんな風に思っていた。僕は熱くないし、まっすぐじゃないし、かっこつけている。そんな言葉で括ってくる人には、いつも心の中で唾を吐いていた。

モヨコの周りにいるバンドたちはみんなカッコ良くて刺激的だった。僕はそれをいつも少し離れたところから指を加えて見ていた。だけど森くんは、僕に構ってくれた。決して仲良しではなかったように思うけど、節目節目で、僕らはそれぞれに何かあるときに、4.5時間二人きりで語らう仲だった。ファストフードや、公園、喫茶店。

札幌で月に5.6回一緒のライブに出ることなんてざらにあったな。
コロニーで中打ち、終電ないからそれから朝までうち、そんな夜もあった。
仲間だと思って、ずっと一緒だと思って、そんな偽物の安心を僕が被っている間に、モヨコはどんどん飛び出していった。メンバーがやめるとか、東京にいくとか、事務所がなんとかとか、ライブがどうとか、なんとかかんとか、「バンド」ってやつをしていた。かく言うこっちは、平凡な日々だった。あいつらとは違うんだという気持ちがどんどん大きくなればなるほど、比べる時間は増えた。爆弾もモヨコも、気づいたら先を行って、見えなくなっていた。いつからか、追うことをやめてからは、少し楽になった。


もう、何年前だろうか、あれは。
下北沢ベースメントバーで対バンの日、森くんは風邪を引いていた。真っ赤な顔をして、PA卓の横の壁にもたれながら僕らのライブを見ていた。僕はいいライブをした気がするし、あの日の森くんのステージはもっと狂気に満ちていた。街がどこだろうと、僕らは間違ってないんだと思った。そんなこんなで22.23歳だった僕らは、30歳になっていた。





今年の夏の終わりが近づいてきた頃、森くんから連絡があった。
「モヨコ活動休止するよ」と書いてあった。僕は「そうか、じゃあ俺もその波に乗っかるかな〜」と返した。森くんから「そんな波はない笑」と返事がきた。
あの頃、本当にボイガルを辞めようと思っていた。でも、やめなくてよかった。
森くんの、「そんな波はない笑」に、少し掬われたのは間違いない。



モヨコから、最後に爆弾ジョニーと下北沢ベースメントバーで2マンをやると発表されたあと、森くんからすぐ連絡がきた。「ボイガル対バンしたいな」と書いてあった。「11月、札幌でツーマンどうかな」と書いてあった。嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、すぐ調整する!と言って、2日後に僕は断った。森くんから連絡がきて返事をするまでのその2日間、僕はスケジュールの調整も確認も、何ひとつしていない。嬉しいなーって思いながらその2日間、モヨコとの日々を振り返ったりモヨコの音楽を聴いたりしていた。僕は最初からやらないつもりだった。「対バンしたい、ツーマンしたい」と森くんに言われた時に、飛び上がるほど嬉しくて、嬉しくて嬉しくて、さみしくなっちゃって、その瞬間に断ろうと思った。ごめんね森くん、ごめん。さみしくなったのは、あの時の一瞬だけだ。
札幌でモヨコもう一回見たかったって人がいたなら、ごめんなさい。僕がオッケー出してればもう一度札幌で見れたかもしれないんだけど。はは。





僕らは真逆だった。再会にはいつも時間がかかる。

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